J 「一心」
昭和五十七年二月二十四日 朝の御理解
x御理解 第三十六節 「日本国中のあらゆる神を、みな信心すると言うが、それはあ まりの信心じゃ。人に物を頼むにも、一人に任すと、その人 が力を入れて世話をしてくれるが、多くの人に頼めば、相談 に暮れて物事はかどらず。大工を雇うても、棟梁がなければ ならぬ。草木でも芯というたら一つじゃ。神信心もこの一心 を出すと、すぐおかげが受けられる。」
こんな話を聞いた事があります。或る旅をする人が山にかかるので、手前で一服しょうと思うて一服しておるうちに、とろとろっと、こう眠気がきた。
時にどこからともなしに話声が聞こえてくる。どこどこの権現様、どこどこの不動様とまあ、有名名高い神様やら仏様が三人集まって話をしておられる。
どこどこ村の何、何、という氏子が、ね、もう、医者も手を離したというから助けてくれと言うて願いに来たから、今、行きよるところだと、おお、あんたんところもですか、私のところにも願いに来ましたがという話声が聞こえてきたというのです。 そして、そんならあなたが行って下さい。というてしりくらべしょんなさるうちに時間がかかってとうとう間に合わずに亡くなられたげな。という話なんです。
けれども、今日の御理解から、これはやっぱしうがった話だと思いますね。沢山の神やら仏やらそれこそ、八百万の神々様で拝んだからというて、あの人は信心深いというふうにいう向きもありますけれども、それが信心ではないのである。
教祖はそこんところを一心と。その一心を出すとすぐにおかげが受けられる、とおっしゃとられます。だから私はもう金光様一本と、もう特に私は合楽に一本で腹は決めております、という事もでしょうけれども、それだけの事ではないと思うですね。 その一心を出すとすぐにおかげが受けられると、すぐにおかげを受けられるというような一心とはどういう事でしょうか。
皆さんこうやって朝参りをなさる方達は、やっぱり一つの一心を立てられ、どうでも朝参りはさしてもらおう、しかも生涯かけてといったような祈りやらをもっておられる方があると思います。ね、
まあ、そこで合楽で、ま、朝参りの中で手本のように私思うのは正義先生と思うですね。も、どんなに教会の御用が遅かっても、ま、これは社用でよそに行かれたという時は別ですけど、でない限り時間にもおくれないし、なら、今日は日参を欠かそうといった事がないですもんね。かって、これは一心を立てておるからですよ。
そういう一心を立てたら絶対おかげになるです、ね。ところが、そこんところが壊れる。私は毎朝のように思うんですけれども、なら、私が朝の御祈念にそれこそ一分間だっておくれません。為には三十分前に出て来ますからね。私は四時の御祈念ですけれども、三時半にはきちっと此処に出てくるんです。
これは何故出来るかというと、人間ですからどこに御粗末御無礼が出来たり、不調法が出来たりわかりませんけれども、その為に、なら、三十分間早く出てくるというねえ。例えば、私、五時の御祈念に終わりますね、この頃は四時、一時間十五分も二十分もかかるような事がございます。若先生が此処へ出てくる。結局私の方が早くなる。今日も私が五時過ぎに、ですけどまあだ出てこない。こりゃ一心を立てるというでもです、もう確かに若先生が場合なんかは、少々、少々というがもうそんな事でよくまあ出られるなあと、それこそまあ、御神前に朝の御祈念をするという事にはもう這うてでも出てくるという生き方を一心に定めとるらしいです。だからでけるのです いろいろな事情がありました。病気をした事もありましたけれども、お家(うち)に居る限りどんなにいうなら、病気がひどかっても御祈念を御無礼したという事はございません。一心を立てとるからです、ね。けれどもね、なら、どんな事があってもならね、いうなら五時の御祈念承るのですから、先ず、五時十分なら十分前にきてね親先生に待たせるような事があってはならんという、もう一つ一心を出したらもっと素晴らしかろうと思いますね。も、ここでは時間を、朝の時間を命のように申します 修行生の方にでも、朝の御祈念に参られるごたるこっちゃ、合楽で修行しよる資格はなかばいち、私は申しますようにです、これは出来ないというのは一心をたてないからですよ。
私は今日、此処で教祖がおっしゃる一心を立つれば、すぐにおかげになるというほどしの一心とは、ね、ま、ここでいうならば、なら、正義先生のような一心だと思いますね。おかげを受けるでしょうが、だから、ね、その辺のところが少し乱れたらやっぱりおかげも少し乱れます。勿論、ならはじめに申したように、あちらにも頼みここにも頼みという事はしないに致しましても、私は合楽一本とい事だけでは只、すぐにおかげが受けられる一心にはならないと思う。
一心を立てたらいうならば、乱さない。迷わないだけではない。もう、それこそ、一心を立てたらそれを貫くというところ、いう信心ができた時に私は、まあ、此処ではすぐにおかげが、その一心を出すとすぐにおかげが受けられるとおっしゃるそのすぐのとい事は、おかげが受けられるという事でしょうが、ね。信心にはそういうところがあるようです。世の中には信心深いといやあそれこそ、何々様に参り、どこにもお参りしよると、ね。どこどこにはもう、その月参りをしてというように、熱心なそういう人が信心篤いというふうに、まあ、私共も言うたり、思うたりしてきましたけれども、教祖様は、ね、決して、神やら仏やらそれこそやぶ神子神の前を通っても、一礼をするような心とおっしゃるからあなどるというような事は、こう厳しく教えておられますけれども、なら、事自分の一心自分の事を、なら、頼むとか願うとかいうたら、この方一心と定めいというふうに此処では言うておられるわけです、ね。
それが信心だとしかも、んなら、今日はその、一心、私はもう合楽一本ですと、いうだけではなくてです、これは、なら私が、いうならもう、朝の御祈念だけは、四時の御祈念に一分だってきってはならんという一心を立てておりますから、いうなら、何十年間、これだけは間違った事はなりまっせんもんね、ね。だから、その辺の一心のたてぐわいが、ね、どこにその一心を置くか、といところにです、もう一辺、自分どんの信心を検討してみなきゃならんと思うですね。
どうぞ。